RÉMY MARTIN XO

書き下ろし短編小説「RÉMY MARTIN XO × 羽田圭介」

厳しさ

羽田圭介

 二人で三時間ほど居たフレンチレストランから出ると、屋根から滴が垂れ、路面は濡れていた。傘を持ってこなかったことをわたしは一瞬悔やむも、屋根の外に出てみるとかろうじて降っているという程度の小雨だった。
「一つ目のバーは……ここを真っ直ぐ行ったところかな」
 スマートフォンの地図アプリを見ている早苗に言われ、飲食店が点在する静かな道を歩く。大学入学時の音楽サークルの新入生歓迎コンパで知り合って以降、一二年来の友人同士、月に一度ほどのペースで会っていた。フレンチレストラン店内で検索し、候補の店をいくつか見つけてはいた。辿り着いたバーは雑居ビルの一階に位置しており、ガラス張りのドアが開いてる様はいささか開放的な雰囲気が過ぎていて、ラストオーダーまであと一時間ちょっとしかなかった。
「ワインバルって感じだね」
 言いながら早苗は、地図アプリで次の候補をあたろうとしている。
「うん。どうせだったらもっと暗い、雰囲気のあるバーがいい」
 わたしもそう言いながら検索し、二人で見当をつけた次のバーまで歩いている道すがら、目の前の壁がいきなりせり出してきた。三階建てビルの白い壁と一体化していたそれはドアで、中年の男女が出てくるところだった。
 開いたドアの向こうにわずかな明かりと人影、壁にずらっと並べられた瓶の輝きが見える。
「バーだね、入ろう」
 わたしの先導で中に入ると、一〇人も座れないようなカウンター席の奥へ通された。三組いる客は、男女のカップルだった。外からちょっと見ただけではわからなかったが、客同士のプライバシーを保つためか、席間は広い。価格帯も高めということか。
「え、大丈夫かな」
 同じことを思ったらしい早苗が口にしたが、私は「いざとなったら史朗さん呼んで」と言い、座る。史朗さんとは、早苗の夫である歯科医だ。それほど稼げているわけでもないと早苗は常日頃から言っているが、このご時世に彼女自身が東京で専業主婦をやっていられるということは、稼げているのだろう。
「いや、もしものときは京子貸してね。持ってるでしょう」
「まあ、持ってるけど」
 全国的な異動もあるような総合職で働いているわたしはたしかに、お小遣い制の早苗より自由に使えるお金はある。ただそのために、いきなり人間関係や環境をがらっと変えられてしまう異動まで受け入れるべきなのか。一年半の仙台、二年間の大阪勤務を経てきた今となっては、疑問に思う。二年前から再び東京勤務となったが、次の異動辞令が出た際にどうすべきかは、迷っている。
 メニューを探すも手元にはなく、二分くらい待ったあとでオールバックの男性バーテンダーに自分から頼んでようやく、黒く細長い形のメニューを渡された。わりと分厚く、酒の種類も多かった。ウィスキーといった蒸留酒がメインの店らしく、なんとなく飲もうと決めていたワインは、赤と白含めて六種類しかない。わたしは辛口、早苗は甘口の白ワインを頼んだ。
 ワイングラスに入れられたワインの香りを嗅いでいると、それを見た早苗も思いだしたように同じことをしたあとで、ようやく口にふくんだ。普段一人では飲まないし、付き合って二年が経とうとしている一歳上の彼氏はビールを一缶ぶんくらいしか飲めずわたしがそれにあわせる場合が多いから、ワインなんて久しぶりに飲んだ気がする。
「やっぱ違う?」
「うん、違う。シャルドネ自体はそんなに珍しいお酒でもないはずだけど。グラスがいいのかな」
 香りの話繋がりで、早苗が先々月の誕生日プレゼントとして夫からもらったフレグランスセットの話になった。百貨店で売られていたりするそれは六万円以上するらしいが、早苗自身はそのありがたみがそれほどわからず、持て余しているという。
「私そんなに鼻良くないからな。服とかのほうが」
「史朗さんは、いい香りとか好きなんだっけ?」
「いや、そうでもないと思うけど」
「じゃあなんでそれにしたんだろう」
「自分にはわからないけど女は全員いい香りが好き、って思ってるのかな」
 そうやって喋っているうちに互いのワイングラスも空になり、もう一杯くらい飲もうと再びメニューをもらった。蒸留酒メインの店であるからしてそのうちのどれかを試してみようとするも、どれを選んで良いのかわからない。ただ大まかな種類分けがなされたリストの並び順は価格順のため、なんとなく一杯二〇〇〇円前後の価格帯のものを見てゆく。
「すみません、このあたりのお酒、違いを教えてくれますか?」
 バーテンダーに訊くと、舌ざわりや香りのことを教えてくれた。
「スモーキーとフルーティーな感じ両方があるのは、これなんですね」
「華やかな香りがお好きでしたら、ウィスキーではなく、こちらのコニャックなんかがおすすめです」
「コニャック」
「ええ。ウィスキーは麦といった穀物を原料にしているんですが、コニャックはぶどうの蒸留酒です。これなんかは、フランスの厳選されたぶどうから作られたコニャックでして、フルーティーな香りが芳醇で、ワイン好きの方にも好まれます」
 アクサン付きのローマ字で書かれたそのお酒の銘柄をよく読むと、レミーマルタンとあった。聞いたことはある。わたしはロックで、早苗がハイボールで頼んだ。置かれたグラスの中には、丸く削られた大きな氷と、その半分ほどまでを、赤みがかった琥珀色の液体が浸している。
 グラスを持った段階で、果実とスパイスが混ざったような香りが鼻に届いた。無意識的に鼻腔が広がる感覚を覚えながら口に少量含んでみると、強い酒自体に甘さはほとんどないはずだが、ドライフルーツやナッツと合う味だと感じた。無花果いちじくなんかがいいと思うのは、レミーマルタンそのものに無花果の香りでも付されているのだろうか。
「すごい香りするね」
「ハイボールでもわかるの?」
「うん」
 ロックで飲んでいると、お酒というより、飲むフレグランスといった印象だ。ワイン以外に、ぶどうをベースとしたこんなお酒があるとは、知らなかった。
「私でもわかるくらいだから、京子みたいな人はもっと楽しめそうだよね、こういうの」
「父親譲りで、嗅覚だけはいいんだよね。父本人には負けるけど」
「お父さんのほうが鼻いいの?」
 そこから話題は、そろそろやってくる父の日についてになった。早苗は毎年ちゃんとプレゼントを贈っているようだった。わたしは母にはいつもカーネーションを贈っているが、父に対してはまちまちであり、ここ二、三年は贈っていなかった。
「ちゃんと贈っておいたほうがいいよ。喜ばせられるうちに、やっておいたほうが」
「そうなのかな。父の誕生日が七月頭で、近すぎるからどっちもおざなりになる感じが昔からあるんだよね」
 二杯目を飲み終えると一人五千円ほどの会計を済ませ、外に出た。
「暗い隠れ家みたいなバーに来るの、好き。また今度来よう」
「そうだね。京子ああいうバーよく行くの?」
「ううん。人生で、両手におさまるくらい……五、六回しか行ってないかな」
「好きなのに、五、六回? 全然行ってないじゃん」
 地下鉄の駅まで歩く道すがら、早苗に指摘されいささか愕然とした。わたしは自分でああいう隠れ家みたいなバーを好きな人間だと思ってきたが、三〇年生きてきて実際にはそれくらいしか足を運んでいないのだ。店での一人飲みをしない私にとって、隠れ家のような雰囲気の良いバーは異性に口説かれたり口説いたりする際に行く場合が多かった気がする。それ以上関係性が進んだり、駄目だったりした場合は、行かなくなるのかもしれない。わたしの心の中ではそれらの場の思い出が大きくなっているから、実際に行った回数は問題ではないのか。たった数回のことや、そこから派生するイメージが、日常にときめきや希望を抱かせたりもする。しかし、それにしても。五、六回は少ない。
 ふと、いつのまにか時間は経ってしまっていて、色々なことをする機会はどんどん減ってゆくのだろうなというようなことを考えた。

 父方の祖父の一〇回忌が長野で行われる日、土曜日にもかかわらず昼に一件打ち合わせがあった。法事は午前一一時から始められるとのことで、わたしはそれには間に合わなかった。打ち合わせを済ませると、小さいスーツケースを持ったまま新宿から特急電車に乗り、松本から在来線も乗り継ぐと、周りに山々しか見えない駅で降りた。
 車内から母に駅への到着予定時刻を伝えておいてはいた。駅前に立っていると、白いコンパクトカーがやって来て、母からの《広司おじさんが迎えに行きます!》というメッセージが届いたのが同時だった。コンパクトカーの助手席の窓が開き、コウジおじさんが顔をのぞかせる。
「京子ちゃん仕事だったんだって?」
「はい。二時過ぎまで」
 コウジおじさんはアキエおばさん、長男のシンジくんと一緒に山梨からこの車に乗り、昨夜のうちに来ていたらしい。ヨシノちゃんとリョウイチくん他二人の従兄弟いとこは来ていないようだった。アキエおばさんは三姉弟の一番上で、わたしの父が真ん中、末っ子にハルおばさんがいる。ハルおばさんは一人息子のユウイチくんが専門学校に入学した五年前に離婚し、今は東京で一人暮らしをしている。
 午後五時過ぎに、ログハウスふうの板張りの外観の大きな家に到着した。わたしが小学生の頃に立て替えられた家だから、築二〇年ほどだ。中に入ると、当時のものといった古さの感じられる中途半端な濃さのフローリングや壁紙が内装材として貼られている。
 アキエおばさんが夕飯の支度を始めたところで、わたしは手短に仏壇に手を合わせてから、久々に会う親戚たちと挨拶をした。
「和之は?」
「来られないって」
 弟は来ないらしい。仕事か、あるいは同棲中の彼女となにかあるのだろうか。
 祖父が亡くなってからもずっとこの家に住んでいた祖母は二年前から、わたしの両親たちと神奈川の一軒家で同居している。ソファーに座っている祖母から、週に三日通っているデイサービスの話を聞いたりした。
 私が実家に顔を出す度に、祖母はいつもより元気そうな表情を見せるらしいが、今日はわたしから見てもさらに元気そうだった。親族が一同に集まっているからだ。そんな機会は、もうほとんどない。ふと、祖母にはあと何回、親族一同と顔を合わせる機会があるのだろうと思った。


 二階建ての広い家に部屋は沢山あり、家族ごとに部屋が分けられた。このような使われ方をすることを想定して作られたからか、各部屋に押し入れがある。わたしは両親と一緒に、分厚い敷き布団を三人分、フローリングの上に敷いた。掛け布団がかなり重く、寝返りに不自由をきたしそうなその重さに、古さを感じた。わたしや従兄弟たちも皆子供だった頃に使っていた当時のものだとしたら、相当古い。
 隣の部屋から、ユウイチくんのくしゃみが連続して聞こえる。昨日のうちに訪れていたアキエおばさんたちが邸内の掃除はある程度してくれたらしいが、古い布団のホコリにでもやられたか。
 夕飯の前後から順番にお風呂へ入っていて、さっきあがった私と入れ替わりに今は母が入っている。布団の上でスマートフォンをしばらくいじっていたが、することもなくなり、一階へ降りた。
 広いリビングには使われていない暖炉があり、そこを囲うようにソファーが置かれている。父とアキエおばさん、コウジおじさんの三人が座っていて、夕飯から引き続き飲んでいるのか、コウジおじさんの顔は真っ赤だ。ちょうど、父がレミーマルタンを開栓しようとしているところであった。
 特急電車に乗る前、父の日のプレゼント用にと新宿の百貨店で買ってきたのだ。スーツケースに入れたまま渡しそびれ、夕飯をほとんど食べ終わった頃に、皆の前で渡した。父も「ありがとう」と返してきたが、それよりも、それを見ていた祖母のほうがとても嬉しそうにしていた。
 コウジおじさんはもう今晩は日本酒しか飲まないようで、父がすすめるとアキエおばさん、そして私もワイングラスを手にとった。円形の瓶の上部をおおっているビニールを剥がした父がそのままフタを抜くと、ポンッという音がした。まず父が自分のぶんを手酌すると、トクトクという高めの音が、円形の瓶内に入ってきたわずかな空気の中で増幅し、リビングに響いた。あの日バーで飲んだものと同じコニャックを買ったわけだが、わたしはその音を初めて聴いた。
 アキエおばさんの次にわたしも手酌で注ぎ、ワイングラスを口元まで近付けると、あの日バーで嗅いだレミーマルタンより、いささか強めの香りがした。開栓したてだからだろうか。果実のような香りを内包しているお酒は、樽の中で熟成されている期間はいざ知らず、開栓してからの鮮度は大事なのかもしれなかった。
「これいいね。香りすっごくする」
 注いだぶんの半分ほどをもう飲んだアキエおばさんがそう感想を述べるいっぽう、グラスをまわし香りを嗅いでいた父はようやく口に入れたところだった。会社から帰ってくると、一杯目はビールで、二杯目以降は色々な酒を飲んでいた。子供の頃から見続けてきたそんな姿が印象的だということもあるし、自分と同等以上の嗅覚をもつ人間には、高級酒をプレゼントしても、良さをわかってもらえるだろうと思えたから買ったのだ。
「おいしいな、やっぱり。レミーマルタンなんて、久々に飲んだよ」
「昔はしょっちゅう飲んでたの?」
 コウジおじさんに訊かれると、「しょっちゅうじゃないけど」と父は首を横に振る。
「まだ京子たちも小さかった頃、自分の小遣いではそんなに贅沢できなかったけど、会社のつきあいで行ったりした飲みで、飲んでた。レミーマルタンが好きな人がいてさ……あの頃は景気も良かったから」
「よかったじゃない、京子からこうしてまた飲ませてもらえて」
「ほんとだよ」
 アキエおばさんとコウジおじさんに言われなんとなくうなずいている父の横を、風呂上がりの母が通りかかり、「ハルさんお風呂まだよね?」と言いながら二階へ上がっていった。
 話題は、今はもう誰も住んでおらずたまにこういう使われ方をするだけのこの家をどうするかについてになった。というより、私が合流するまではずっとその話題が続いていたのだろう。父やコウジおじさんたち男性陣は税金のことも考えると売れるうちに二束三文でもいいから売ってしまったほうがいいという考えで、二人のおばさんと母は土地だけでも残しておいたほうがいいという考えらしかった。祖母自身は、どっちつかずの意見だという。元は徳島出身であるから自分が先祖代々受け継いできたというような気持ちはおそらくないのと、介護されることを考えるともう自分が住んでいない家や土地について口出しするのははばかられている様子であった。
 やがて、上からやって来たユウイチくんが輪に加わった。やはり布団のホコリに鼻をやられたようで、自宅から持ってきたもので時間を潰そうにも鼻をやられてなにも楽しめないから、酒でも飲みたくなったらしかった。
 アキエおばさんからグラスを渡されたユウイチくんの酒の好みがなにか、私は知らない。彼の目がローテーブル上に置かれたいくつかの酒の中からレミーマルタンにとまったのとほぼ同時に、父が、ガラスとコルクでできた蓋を閉めた。


羽田 圭介(はだ けいすけ)

1985年、東京都生まれ。2003年高校在学中、「黒冷水」で第40回文藝賞を受賞しデビュー。2015年7月、「スクラップ・アンド・ビルド」で第153回芥川賞を受賞。主な著書に「成功者K」「ポルシェ太郎」など。

illustration : Hiroki Nishiyama